ステーシーズ 少女再殺全談

モーニング娘。出演の舞台「ステーシーズ 少女再殺歌劇」の原作、「ステーシーズ 少女再殺全談」を読みました。
敬愛する大槻ケンヂさんの作品ということで、厳かに読ませていただきました。
原作本はさほど長くなく、文章も読みやすかったので、あっという間に読了できました。
やはりわたくしの性格上、映像よりも文章の方が面白く感じますね。人それぞれだとは思いますが。
文章の言い回しだったり、言葉の選び方ひとつ取っても、作者の個性が現れるといいますか、楽しいですね。
舞台は、なるべく原作に忠実に作ろうとしているような作りになっていることがわかりました。
ただ舞台の方は、思春期の美しい時期にステーシー化してしまう悲哀と、そのステーシーを再殺しなければならない悲劇を中心に据えていて、物語を美しいものにしようとする演出に感じられました。美しいものが儚く散りゆくやりきれなさを強調しています。
もっとステーシー化した醜さとか、ステーシーを掃討する酷さとか、ステーシーを再殺することで起こる精神崩壊といった、不道徳的な部分がなくなっていたのが残念といえば残念。
まあ、モーニング娘。を主役にしている以上は、彼女たちを目立たせないといけないので、色々と制約があったのでしょう。エログロ表現などもってのほかですから。
それでもミニマム的とはいえ、この作品をモーニング娘。出演で舞台化したこと自体がある意味奇跡かもしれません。
舞台のストーリーは、人間とステーシーの共生が可能なのではないか? という明るい材料を見出したところで、終わってしまいますが、原作は全く違います。
原作では、特殊能力を持った奇形の少女(新世代)が生まれハムエと呼ばれるようになり彼女たちが世界を統治し、従来の人間(旧世代)はロストと呼ばれ、ステーシーはいつしか人肉を求めなくなり害がなくなると知能の低いペットとして飼われるようになります。
かつて人語を喋ったステーシーモモ、彼女によって語られた言葉は、新々約聖書としてその後の世界のあり方について語られます。新時代の人間ハムエ、旧時代の人間ロスト、そしてステーシーとの共存について語られています。
そのモモと彼女の言葉を聞き取った有田博士は、ステーシーとロストの間に子供をもうけています。これこそ、舞台で言うところのアダムとイブなのかもしれません。
原作版のラストは、かなり宗教色・政治色が強くなってくるので、きっとわざと避けたのだと思われます。
アイドルにあまり宗教や政治的なものはくっつけない方が良いと思うので。
舞台では「愛」を強調していますが、原作でももちろん「愛」は何度も語られています。
ただ、舞台では「愛」だけでストーリーを終わらせたのに対して、原作では話の収拾をつけるため色々と「要素」がくっついてます。要するにつじつま合わせです。
この「つじつま合わせ」をどうするかが、作家の腕の見せどころといいますか、面白いところです。
大槻ケンヂさんは、宗教的かつ政治的にまとめあげました。良いか悪いかではなく、こう来たか! って感じです。
この話で印象的なのは「お別れしても、どんな形でも、また会えたなら、それでチャラ」というセリフです。
いかに好きな人が一度死んでお別れしても、再びステーシーとして会えたのなら、チャラ。というのが悲しみを誘います。
これがラストの数十年経ったシーンで、渋川が最初に再殺しなおかつ愛したステーシー、詠子のことが忘れられず、売買されているステーシーに「詠子」と名づけペットにしてるシーンに響いてきます。
果たして、老人となった渋川にとってお金で買った「詠子」との再会は、「チャラ」になったのか?
最後に、ステーシー再殺部隊をロメロ部隊という名前で登場させてますが、これはゾンビ映画の巨匠、ジョージ・A・ロメロ監督から由来しているものと思われます。オマージュかな。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)








最近のコメント